【読書日記】白銀の墟 玄の月 十二国記

ようやく読了。

中学校の頃に友人の姉の月の影・影の海(ホワイトハーツ版)を借りて読んだ時から、もう18年も経っていることに驚き。

新潮文庫版の販売が始まって、新作長編を今か今かと待ちわびていたのに、まさか米国赴任中に販売になるとは思わなかった。発売直後にNYに行ったタイミングで購入しようとするも、紀伊国屋は売り切れ。結局日本から購入したものの、コロナ騒ぎで積ん読に。Independent Day休暇でやっと手に取った。

結論からいえば、面白かった。華胥の夢以降、期待値ばかり上がっていたので、正直期待はずれだったからどうしようかと思っていたところ。魔性の子に始まる泰麒の物語にも一応の決着がつき満足。

ただ、気になったのは、全体として、「天の理」にフォーカスされるようになっていること。もちろん本シリーズを通して「天の理」は一貫したテーマであるのだけど、今回は特に、阿選の弑逆を通じて「天」とは、「王」とは、「麒麟」とは、に焦点があたり、それはすなわち現実世界の政治制度、民主制度に対する警句であったように思える。30代になった今、そうした側面に焦点が当たるのは非常に面白いと感じる一方、「中学生の自分が読んだら、面白かっただろうか」という疑問が湧いたところ。

それはさておき、「白銀の墟 玄の月」で最も印象に残ったのは、泰麒が「最も簡単なのは、自分を斬って捨てること」と話す一巻のシーンである。麒麟が死ねば、どこかにいる驍宗(王)も死に、新しい麒麟の胎果が実り、新しい王が選定されることになる。合理的である。ところが、この方法は取られない(ちなみに、過去のエピソードで、2代続いて暗君を選んだとして弑逆の際に殺された麒麟がいたと思う。なので決してありえない選択肢ではないのだろう)。

麒麟は王、すなわち為政者を選ぶ。不思議なことに、選ばれた王が名君となる保証はどこにでもない。十二国記のなかでは、当初は名君であったとしても、長く施政を続けるうちに、失道する王は多い。現実社会に置き換えれば、麒麟は民意であり、王は政治家なのだろうか。そうだとすると、正しい為政者を選べなかった麒麟を殺すということは、すなわち民意の自己否定になるのだろうか。あるいは、麒麟=選挙制度だとすれば、麒麟を殺すことは選挙制度を改革する程度の問題なのか。

十二国記では、民は王を選べない。王は麒麟が選ぶ。中学生の時には、現実社会と大きな違いだと感じた。30代にもなると、あまり大きな違いには思えない。我々は選挙で政治家を選べる。が、たとえ選挙に足を運んだとしても、自分が政治家を選んだという実感を得たことは正直ない。麒麟が王を選ぶ十二国と何の違いがあるのだろうか。

むしろ我々は、載国の民のように、麒麟(=民意)を信じ、王(=民意が選んだ為政者)を信じることができるのか。政治家を批判することは用意だが、それは同時に、あまりに安易に麒麟(=民意)を殺すことを意味しないのか。

そんなことを思って3回読み返しました。