【読書日記】鬼はもとより

読了。青山文平の著書を読むのは初めて。藩札を扱った時代小説という点に興味を惹かれ、kindleにて購入。

主人公の奥脇抄一郎は、北国の小藩で上級藩士の家に生まれ、女遊びが高じて後家に刺されたことから、閑職に回された末、藩札の発行に携わることになる。佐島兵右衛門の下、当初はうまくいっていた藩札発行だったが、飢饉の年に正貨準備を大きくうわまる発行を行い、あえなく瓦解する。飢饉における年貢収入の減収と窮民の必要性(=財政赤字の拡大)に対し、どのように対応すべきかは、現代においても困難な問題であるかと思う。現代であれば、対外援助(grantやconcessional loan)を求めることになるだろうが、江戸時代においては、そうした概念は存在しない。とすると、藩札の発行による財政ファイナンスに頼るか、藩札の発行額を維持したまま飢饉をやりすごすかしか方策はないのだろう。いずれの施策をとったにせよ、当時の藩が置かれた状況では、一揆の発生は防ぎようがなかったのだろうと思う。

その後、抄一郎は江戸に出て、万年青の栽培で身過ぎをしつつ、様々な藩の藩札発行に携わることになる。いわば、藩札コンサルタントといったところか。抄一郎は、国の主法替えを伴うような大掛かりな案件に関わりたいと思いつつ、藩札の素材やデザインなど、細かめな案件が多い。そうしたなかで、北の小藩から主法替えと藩札の発行の案件が持ち込まれることになる。

【読書日記】アフタービットコイン2

読了。アフタービットコイン1は読んでいませんが。

著者は、「決済システムのすべて」「証券決済システムのすべて」などの中島氏。もっとも、よりテクニカルな(玄人向け)感のあるこれらの著書に対し、本著はより一般向けか。

とはいえ、Stable coinやCBDCs(Central Bank Digital Currencies) をめぐる現状について、わかりやすく整理しており、一読の価値あり。

特に、大口向けCBDCsの意義について、それ単体では(すでに中銀当預はデジタル化されていることから)改めてblock chain技術を用いてデジタル化する意義が薄いとしつつも、証券決済のトークン化との絡みではメリットがありうるという点については、なるほど、と。DVPの実施に当たって、ほふりシステムと日銀ネットとの連携に多大なコストが生じていそうなことを踏まえると、この点は大きなメリットなのだろうなと。ただし、技術面のことはあまり触れておらず、ブロックチェーン化した証券トークンと、ブロックチェーン化したデジタル通貨のDVPがどの程度簡単にいくものなのかは不明。

【読書日記】アフタービットコイン2

読了。アフタービットコイン1は読んでいませんが。

著者は、「決済システムのすべて」「証券決済システムのすべて」などの中島氏。もっとも、よりテクニカルな(玄人向け)感のあるこれらの著書に対し、本著はより一般向けか。

とはいえ、Stable coinやCBDCs(Central Bank Digital Currencies) をめぐる現状について、わかりやすく整理しており、一読の価値あり。

特に、大口向けCBDCsの意義について、それ単体では(すでに中銀当預はデジタル化されていることから)改めてblock chain技術を用いてデジタル化する意義が薄いとしつつも、証券決済のトークン化との絡みではメリットがありうるという点については、なるほど、と。DVPの実施に当たって、ほふりシステムと日銀ネットとの連携に多大なコストが生じていそうなことを踏まえると、この点は大きなメリットなのだろうなと。ただし、技術面のことはあまり触れておらず、ブロックチェーン化した証券トークンと、ブロックチェーン化したデジタル通貨のDVPがどの程度簡単にいくものなのかは不明。

【読書日記】忘れられた巨人

カズオ・イシグロの最新長編。二回目の読了。

アーサー王伝説を下敷きに、サクソン人とブリトン人の(忘れられた)対立を描くもの。

イシグロの長編は、『充たされざるもの』等、主題がつかみずらいものもあるが、本作はクリア。「忘れる」ことの意味。歴史を伝えることの功罪。

 

主人公であるブリトン人の夫婦は、「なにか思い出せない」記憶を抱えたまま、イングランドを旅することになる。思い出せないものは、過去におけるサクソン人とブリトン人の戦い・殺戮の歴史である。その記憶をだれもが、霧のなかで忘れているからこそ、表面上、サクソン人とブリトン人は共存している。ところが、物語の終幕、その記憶は呼び起こされてしまう。

 

イシグロが指摘することは、①忘れることの重要性なのか、それとも、②過去は忘れることができない、という警句なのか。

 

民族紛争における虐殺を経験したルワンダでは、昨日までの隣人に、自分の家族を殺された人が多くいるという。ルワンダは、虐殺時の罪をあまり追及しすぎない、赦しによって国を再生させつつある。これは、忘れることの重要性を示しているのか、それとも、結局のところ、いつかの将来において、忘れようとした記憶が呼び起こされ、再びの紛争を生みかねないのか。

 

【読書日記】白銀の墟 玄の月 十二国記

ようやく読了。

中学校の頃に友人の姉の月の影・影の海(ホワイトハーツ版)を借りて読んだ時から、もう18年も経っていることに驚き。

新潮文庫版の販売が始まって、新作長編を今か今かと待ちわびていたのに、まさか米国赴任中に販売になるとは思わなかった。発売直後にNYに行ったタイミングで購入しようとするも、紀伊国屋は売り切れ。結局日本から購入したものの、コロナ騒ぎで積ん読に。Independent Day休暇でやっと手に取った。

結論からいえば、面白かった。華胥の夢以降、期待値ばかり上がっていたので、正直期待はずれだったからどうしようかと思っていたところ。魔性の子に始まる泰麒の物語にも一応の決着がつき満足。

ただ、気になったのは、全体として、「天の理」にフォーカスされるようになっていること。もちろん本シリーズを通して「天の理」は一貫したテーマであるのだけど、今回は特に、阿選の弑逆を通じて「天」とは、「王」とは、「麒麟」とは、に焦点があたり、それはすなわち現実世界の政治制度、民主制度に対する警句であったように思える。30代になった今、そうした側面に焦点が当たるのは非常に面白いと感じる一方、「中学生の自分が読んだら、面白かっただろうか」という疑問が湧いたところ。

それはさておき、「白銀の墟 玄の月」で最も印象に残ったのは、泰麒が「最も簡単なのは、自分を斬って捨てること」と話す一巻のシーンである。麒麟が死ねば、どこかにいる驍宗(王)も死に、新しい麒麟の胎果が実り、新しい王が選定されることになる。合理的である。ところが、この方法は取られない(ちなみに、過去のエピソードで、2代続いて暗君を選んだとして弑逆の際に殺された麒麟がいたと思う。なので決してありえない選択肢ではないのだろう)。

麒麟は王、すなわち為政者を選ぶ。不思議なことに、選ばれた王が名君となる保証はどこにでもない。十二国記のなかでは、当初は名君であったとしても、長く施政を続けるうちに、失道する王は多い。現実社会に置き換えれば、麒麟は民意であり、王は政治家なのだろうか。そうだとすると、正しい為政者を選べなかった麒麟を殺すということは、すなわち民意の自己否定になるのだろうか。あるいは、麒麟=選挙制度だとすれば、麒麟を殺すことは選挙制度を改革する程度の問題なのか。

十二国記では、民は王を選べない。王は麒麟が選ぶ。中学生の時には、現実社会と大きな違いだと感じた。30代にもなると、あまり大きな違いには思えない。我々は選挙で政治家を選べる。が、たとえ選挙に足を運んだとしても、自分が政治家を選んだという実感を得たことは正直ない。麒麟が王を選ぶ十二国と何の違いがあるのだろうか。

むしろ我々は、載国の民のように、麒麟(=民意)を信じ、王(=民意が選んだ為政者)を信じることができるのか。政治家を批判することは用意だが、それは同時に、あまりに安易に麒麟(=民意)を殺すことを意味しないのか。

そんなことを思って3回読み返しました。